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2021.1113(土)映画『凱歌』トークセッション、ダイジェストレポート [ハンセン病のこと。]

2021年11月13日(土)13:30〜16:00、藤枝シネ・プレーゴにて行われた
「映画『凱歌』上映会 &トークセッション」。
まずは、ドキュメンタリー映画「凱旋」が上映されました。

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その後で、行われたのが「トークセッション」です。


上映会終了後、しばしの休憩後、会場のスクリーンはこのようになりました。

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【左上】「山内きみ江」さん
東京都東村山市にある「国立療養所多磨全生園」で生活なさっています。
【右上】「坂口香津美」監督
映画「凱歌」を撮影・編集なさいました。
【下中央】「阿久沢悦子」さん
朝日新聞記者:「トークセッション」司会者
【下左】「島田真梨子」さん
フリーアナウンサー:「上映会」MC

この記事では、「トークセッション」で、坂口監督ときみ江さんが語られたことを
全てではないですが、ダイジェストでレポートさせていただきます。
* 皆さんがお話されたことを、なるべくそのまま書き取りました。
  聞き取り間違いがあるかもしれませんが、お気付きの場合はご指摘ください。
  後で、修正加筆いたします。

司会【阿久沢】さん
坂口監督!
ハンセン病の映画と撮ろうと思ったきっかけは、何でしたか?

【坂口監督】
この映画を撮るきっかけは、1998年の秋のことでした。
テレビのドキュメンタリー番組で、ディレクターと一緒に、
北海道に山村留学をする12歳の少年を取材することになり、
初めて訪ねた少年の自宅の家の窓は、一面に緑の森が広がっていました。
その少年の父親から、「この森は、国立療養所多磨全生園というところで、
ハンセン病の方々が生活しているところですよ」と教えてもらいました。
その時、北條民雄という小説家の話をしました。
若くしてハンセン病を発症して、全生病院(多磨全生園の前身)に入所し、
24歳の若さで夭折した作家です。
その日「いのちの初夜」という本を買って帰りました。
その10年後の2008年に、母親(山内きみ江さんより4歳年上)を
介護をしなくてはいけなくなり、同居を始めました。
その時弱い私は、だんだん母の態度に追い詰められていきまして、
母に暴力を振るうのではないかというぐらいにまでなりました。
その時、北条民雄の「いのちの初夜」の封を開けてないのを見たんです。
そこに、命をぎりぎりに生きている若者の心が赤裸々に綴られていまして、
その時に森が目に浮かんで、あの森に行ってみようと思いました。
そこで、多磨全生園に行きました。
その時、ここで何かを撮影したいと漠然と思いました。
そこで撮影させてくれる人を探したんですが、なかなか見つからなくて、
この全生園の自治会書記室の方に紹介いただいたのが、
この映画の冒頭に出てくる「中村賢一」さんです。
その「中村賢一」さんが
「どうしても坂口さんに撮影してほしい夫婦がいる」ということで、
「山内きみ江」さん・「定(さだむ)」さんご夫妻をご紹介いただきました。
で、「山内きみ江」さんは、私が思うには、
人間の差別であるとか、誹謗であるとか、人間っていったい何なのか?
ということを、身をもって僕たちに伝えてくれる巨人だと思っています。

通常、人というものは、過去にとらわれる存在だと思うんです。
ぼくがきみ江さんを見て一番驚いたのが、
前を向いて行くという強い精神力をお持ちの方だと思いました。
今回の映画で、前を向いて歩くきみ江さんが、
前へ前へと進み続けているきみ江さんが、
自分の故郷である藤枝の方で、この映画を上映するということは、
自分の原点に戻って、今度はより強く前に進んで行くという、
新しいステップをこれから歩むのではないかと、
これから期待しています。
 * 監督の思いは、映画「凱歌」の公式サイトでも語られています。

【阿久沢】さん
坂口監督、ありがとうございました。
きみ江さん!おかえりなさい!皆さんも拍手でお迎えください!

皆さんの拍手に迎えられて、スクリーン上ではありましたが、
きみ江さんは、ふるさと「藤枝」に、凱旋されたと感じました。

【阿久沢】さん
きみ江さんは、五行詩の「ありのまま」という本を出されています。
その中で、
  故郷は
  菜の花が咲き
  たわわに実る蜜柑
  干し大根
  懐かしい風景
という五行詩があります。
きみ江さんは、小さい時瀬戸谷の方で過ごされたと聞いていますが、
どんなところだったでしょうか?思い出があれば教えてください。

【きみ江】さん
田舎ですけれど、温暖な土地ですから、
蜜柑はなるし、筍は出るし、ありとあらゆるものが恵まれていたので、
たとえ、戦時中貧しい時でも、槙の実を食べたり、苺を採って食べたり、
野にあるもので、楽しんだ。
いたどりなんかも皮をむいて、そして食べたっていうようで、
お腹が空いている時だから、皆でいろんなものを食べたけど、
気候が温暖な土地だからこそで…。
それで、春になると菜種、菜の花が咲き、蓮華が咲き、
その花の蜜を吸う蜂蜜を採る業者が来て、いくつも箱を置いて、
そして蜂蜜を採っていた。
そういうところで、ごろごろごろごろ転がりながら遊んで、
そしてその頃はまだ多少手が良かったので、
首飾りを付けたり、指輪を作ったりして、
子どもの頃から手を動かすのが好きで、遊びました。
そして、瀬戸川という川が流れていて、そこには鮎がのぼり、
6月の1日になると、カンテラを下げた釣り人が来て、
そのカンテラの匂いとその灯りで、ついつられて川へ行くと、
鮎を採る人たちが「邪魔になるからどけ!」とか言われて、
その人たちが立ち去ると同時に、
まだその頃は多少悪かったけれど、感じがあるから、石の下に手を入れると、
どじょうを採ったり、鮒を採ったり、はやを採ったり…。
そしてまた、田螺(たにし)とか、ゴウライという貝がいまして、
そういうのを採って、おやつにしました。
温暖な土地ですからもう、あらゆるものに、
子どもの当時での、食べるものには不自由しなかったということで。
また9月の8日には、花火大会があって、
瀬戸川で大きな花火が出て、山と山の間ですので、すっごい響きだったんです。
神社があって、夏ですので提灯の灯りを目指して、蛍がうんと飛んで来て、
もうほんとに目の前がうるさいってくらい蛍が舞って来ましたとこで、
水もいいし、田んぼもあるし、そう行った自然に恵まれたとこでした。

【阿久沢】さん
ありがとうございました。
そういった故郷の思い出というのが、今も人をつないでいるんですね。
藤枝の子どもたちに向けて、きみ江さんからメッセージをお願いします。

【きみ江】さん
ここには保育園がありまして、よく保育園の子どもとよく遊んで、
「おばあちゃん、そんなに手が悪かったら、ジャンケンとかできないだろう」とか、
「本読みとかページをめくれないだろう」とか言われるんですけど、
「こんな手でもページをめくれるよ。ジャンケンもできるよ。まりつきもできるよ」って、
その不自由な手で、不自由な足で、不可能はないということで、
子どもさんと遊んでるんですけれど。
今日は、東京から高校生が18人か19人来まして、
そこで1時間半ほど話して来ましたけど。
若者とか、子どもに、
自分には不可能はないんだということを、身につけていただいて、
あ〜あの時、あのおばあちゃん、手も悪いし、足も悪いけど、
何でもやるんだなあ ということを思い出して いただきたいって。
今年の、このコロナで動けない、そんな時に、
今日も飾ってあって、ちょっと見えないかもしれないけれど、
この不自由な手で、パズルひとつ拾うのにも大変だけれど、
今年は、300ピースのパズルを18個と、500ピースを1個と、
400ピースを1個というようで、20個以上作りましたけれど、
私には不可能だと思ったけれど、不可能を可能にするのが人間であり、
知恵であるっていうことを、自分で学んで…。
そして、私が伝えたいことは、お子さんに、これはできないじゃなくて、
やる気を出せばどんなこともできるんだっていうことを、私は言いたいと思います。
だから、藤枝の子どもさんたちも、ほんとに勉強が嫌だとか、
またお手伝いが嫌だとかいうけど、そういうことは後に置いてもいいから、
自分が大人になったらどういうことをしたいか?目標を持つ、
っていうことを、教えていきたいなあ、また身につけていただきたいなあ、
ということを感じております。

【阿久沢】さん
圧倒されてしまうようなことをありがとうございました。
今、情熱とか、生きる力みたいなものが画面越しに伝わって来て、
とても、こちらがほんとに励まされるような感じでした。
ありがとうございます。

【きみ江】さん
ほんと、よく、見ていただきました。
これもひとえにね、監督さんがね、醜いとこでの、
「こういうところを撮っちゃ嫌だな」というところまでね、
ほじくりほじくりね、私の悪いところをね、ぜ〜んぶ写しましたのでね。
「こんなとこは撮らないで」って言いたいところまでね、撮ってくださったので、
私の醜い老老…介護じゃないけど、お父さんが一番手の掛かる、
後いくんちで亡くなるかっていうとこ、やせ細った醜い顔もございましたけれど、
それは、私がお父さんを思う1年で衰えちゃったんです。
でもうちの主人は、私がそばにいても、
「お前は何にもならないと。
俺の病気は看護婦さんと、世話してくれる看護員さんがいればいいんだから、
お前は子どものために、社会で、社会の勉強をして来い」
というような、夫の優しい言葉でもって、私も成長してまいりました。

【阿久沢】さん
社会復帰した背景には、
そういう「定」さんの言葉があったということなんですね?

【きみ江】さん
お父さんが「お前は70だから、10年で子どものために
主婦として、また社会人として、一人間として、修行してくると、
お前なら必ずできると。
そのかわり10年たったらね、お前も80になるから、
80になったら動けないから、俺がもし80でいたら、
ご苦労さんって、思いっきりお前を抱きしめてやるから、
それまで辛抱してくれ」って、言いましたけど、
結局6年半で亡くなりましたけど、その6年は、
私も社会人として母親として、一生懸命やりましたけど、
後の半年は、お父さんの看護でもって、
そいで看護婦さんとか、お医者さんとかいるのに、
ご飯は職員さんが食べさせてくれると、「いらないっ」って、
口の中に入れたものも出してしまうようで、
それで私が食べさせると、きれいに、
「これは梅干しだよ、これは何々だよって」
いやとは言わないで、ほとんど食べてくれたっていうような主人でしたので、
「あ〜、私をこんなに信頼してくれたかな」と思うように、
私は今、主人に感謝しております。

【阿久沢】さん
ご夫婦の絆が映画から、本当によく伝わってきました。
坂口監督、今、次回作を撮っていらっしゃると伺いましたが、
どんな映画になりそうですか?

【坂口監督】
コロナの前に撮影した映画がございまして、
「海の音」というタイトルの映画なんですけれど、
私は、劇映画とドキュメンタリー映画を作っておりまして、
この「海の音」は、劇映画です。
小児がんとか、
幼くして命を終えなくてはならない子どもたちがいるわけなんですけれども、
ほとんどの子どもたちは病院で、あの世に旅立たれるわけですけれど、
私は知り合いの小児がんの少女の話を聴きまして、
そういうことではなくて、何かこう自然の中というか、
何か違うところで、そういった旅立ちということを描けないかと思いまして、
海辺に子供専用のホスピスがあるってという設定で作った映画です。
で、命というものが、どういう形でその死を受け止めて、
また、残された日々を過ごしていくかということを…。
いつの機会か、来年の今頃、見ていただく機会があれば、
とてもありがたいと思います。

【阿久沢】さん
来年の秋くらいに公開予定ということですね?

【坂口監督】
そうですね。今編集してますので、そのころ公開ができればと思っています。

「坂口香津美」監督のプロダクション「スーパーサウルス」は、こちら

来年、坂口監督の「海の音」が、この「藤枝シネ・プレーゴ」で
公開されたらいいですね。

きみ江さんのお話は、
藤枝の、瀬戸谷の自然の豊かさを表現していて、
そのまま地域をPRするものに使えそうだなあ、
願わくば、今現在の藤枝(瀬戸谷)もそうであったらいいなあ、
と、ぱらぽんは思いました。

コロナ禍がこのまま、落ち着いてくれたら、
2022年には、ぜひとも、
きみ江さんのリアルな帰省が実現するといいですね。
きみ江さん、お待ちしています!!